吉行淳之介が残した名言を紹介

吉行淳之介 名言


吉行淳之介
吉行淳之介(よしゆき じゅんのすけ)1924年~1994年
日本の小説家。著書:「驟雨」「砂の上の植物群」「暗室」「夕暮まで」など。




・私は「孤独」という文字からは、一種の甘ったれを感じ、「純粋」という文字からはいかがわしさを感じる。



・悲しみに耐えるのはやさしい。感動に耐えるのは、むつかしい。



・少年の頃、激しく傷つくということは、傷つく能力があるから傷つくのであって、その能力の内容と言えば、豊かな感受性と鋭い感覚である。



・本当の才能というものは、どんなに圧え付けられたって現れ出てくるものだよ。他人の手で、芽を摘み取られるものではないさ。



・滑稽小説は難しい、人間としての年輪が必要である。



・ほんとうの意味での処女作というものは、その小説家の可能性が全部含まれていて、結局はそこにまた戻っていくというようなことを感じさせるものですよね。



・「善人」には、小説は書けない。



・汚れるのが厭ならば、生きることをやめなくてはならない。生きているのに汚れていないつもりならば、それは鈍感である。



・動物園の熊、あれをオリのあいだから棒でつつくと、カッと怒るだろう。あれのおもしろさなんてのは、人間がときどき相手に本当のことを言って怒らすのと似てる感じだね。



・外見が美しいというだけで、他人より良い生活ができるのが女の特権である。



・男にとって、女性のこわさは、まずその神経の粗雑さにある。男は女にくらべてはるかにデリケートな神経をもっている。絹糸のようにセンサイな神経と、木材のような神経とからまり合えば、傷つくのはもちろん絹糸の方である。



・虎は死して皮を残し、人は死して名を残す。保険に入っていれば金を残す。



・エゴイストでない人間がいたら、お目にかかりたいね。たとえば犠牲的な行動をする人間を突動かしているものも、結局はその人間のエゴイズムだよ。あるいは、自分自身の立居振舞にたいして、極端に審美的な眼を持つと、他目(よそめ)にはエゴイストでないよに見えてくる場合もあるが、それも結局はエゴイズムから出てきていることさ・・・・



・私は明晰なものしか信用しない。一枚で書けることに、十枚を費やすのも芸の一つであるが、その場合も明晰でなくてはならない。ただし、私自身は一枚で書けることは一枚で書くように心がけている。




・五十歩百歩にしても、悪人のエゴイズムのほうが、やさしさからいって、善人の無神経よりぼくは評価するね。



・太宰の作品には、わが国で文学にかかわり合いを持とうする人間たちの感覚、感受性の原型が、ことごとく含まれているようにおもう。「そんなことまで書いてしまっていいものか」という身近さと、「自分も太宰と同じ感じ方をしている」とくすぐられる感じとを、同時にその作品は与えてくれる。



・「淫靡」ということは大切ですね。これがなくなったら、文化は衰弱するとおもってますよ。



・若さは力である」という事実には、若さの真中にいるときには、人は気づかない。



・葬式のとき、遺族はともかくとして、他人が泣くのは私の最も嫌うところである。過剰な感情をむき出しにすることは、不躾けであり失礼なことでもあると考えていた。



・文章というものはそれだけが宙に浮いて存在しているわけではなく、内容があっての文章である。地面の下に根があって、茎が出て、それから花が咲くようなものである。その花を文章にたとえれば、根と茎の問題が片付かなくては、花は存在できないわけである。



・他人に親切にしようとおもうときは、それが二倍の大きさになって手痛くハネ返ってくる覚悟が必要だ。



・三十歳の人間には、その年齢でしか咲かすことのできない美しい花があり、六十歳の人間には六十歳の花がある。芸術の美とはそういうものだ。



・誰も劣等感を脱ぎ捨てることはできない。人生はけっして素晴らしいものではないが、どうせ生き続けなければならないのなら、なるべく上等な劣等感を身につけた方がいい。




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